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坂本龍馬 幕末歴史検定 中級 問題と解答
中級 問題と解答
Q1 | 次の剣士と流派の組み合わせで間違っているものはどれか。 |
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沖田総司-天然理心流 | |
岡田以蔵-鏡新明智流 | |
中村半次郎-示現流 | |
桂小五郎-心形刀流 |
Q2 | 龍馬に関する出来事を、時系列で並べたときに正しいものを次から選べ。 |
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徳川慶喜15代将軍に就任→いろは丸事件勃発→龍馬、船中八策を提示→イカルス号事件勃発 | |
いろは丸事件勃発→徳川慶喜15代将軍に就任→龍馬、船中八策を提示→イカルス号事件勃発 | |
徳川慶喜15代将軍に就任→いろは丸事件勃発→イカルス号事件勃発→龍馬、船中八策を提示 | |
いろは丸事件勃発→龍馬、船中八策を提示→徳川慶喜15代将軍に就任→イカルス号事件勃発 |
Q3 | 龍馬に与えられた北辰一刀流長刀兵法目録に名前が書かれていなかったのは次のうち誰か。 |
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千葉佐那 | |
千葉真一 | |
千葉里畿 | |
千葉周作 |
Q4 | 文久2年、江戸の「万年屋」で武市半平太と龍馬がある人物と会飲している。それは誰か。 |
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桂小五郎(木戸孝允) | |
三吉慎蔵 | |
久坂玄瑞 | |
西郷隆盛 |
Q5 | 伏見の船宿寺田屋は薩摩藩の定宿だった。ここを龍馬他の浪士が拠点として活動をしていたため、寺田屋を押さえる必要を感じた新選組は、女将のお登勢にどうしろと命令した、とお龍は語っているでしょうか。 |
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上納金を命じた。 | |
お龍を差し出せと言った。 | |
新選組定宿の看板を出せ、といった。 | |
大阪出張の折はいつでも新選組専用の船を仕立てるよう便宜を図らせた。 |
Q6 | 武市半平太が江戸で塾頭をしていた道場の名前は何か。 |
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桃井春蔵道場 | |
斎藤弥九郎道場 | |
千葉定吉道場 | |
千葉周作道場 |
Q7 | 武市半平太が立ち上げた土佐勤王党に加わった若者たちは、一同、ある意匠を施しました。土佐城下の若者たちにも流行したその意匠とは何か。 |
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お揃いの制服を着る | |
ブーツを履く | |
香水をつける | |
特殊な髪形をする |
Q8 | 龍馬は武市半平太の土佐勤王党に何番目に加入したか。 |
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3番目 | |
2番目 | |
9番目 | |
12番目 |
Q9 | 安政5年11月、水戸藩士の住谷寅之介らに面会を求められた龍馬は、彼らの待つ立川番所へおもむいて面談するが、政治的に無知だったために失望さ せてしまい、住谷は日記に「龍馬、誠実かなりの人物。しかしながら○○○、事情迂闊」と書いている。「○○○」に入る言葉は何か。 |
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撃剣家 | |
無学者 | |
田舎漢 | |
砲術家 |
Q10 | 吉村虎太郎が挙兵した倒幕組織は何か。 |
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天誅組 | |
新撰組 | |
白虎隊 | |
奇兵隊 |
Q11 | 文久2年3月、龍馬が脱藩する前日に酒をもって参拝したという才谷家の伝承がある、坂本一族が信仰していた神社は何という名前か。 |
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薫的神社 | |
和霊神社 | |
山内神社 | |
長宗我部神社 |
Q12 | 文久元年9月、龍馬は武市瑞山(半平太)を盟主とする土佐勤王党に加盟するが、加盟者でありながら、加盟者名簿の写しから名前が削られた人物が数人いる。以下のうちで名前が削られていないのは誰か。 |
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那須信吾 | |
吉村虎太郎 | |
中岡慎太郎 | |
岡田以蔵 |
Q13 | 文久元年10月、龍馬は讃岐丸亀へ剣術詮議に出かけるが、その14日に柴巻の田中良助方で金子を借用し、その借用証も田中家に伝わっている。このとき龍馬が借用した金額はいくらか。 |
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1両 | |
3両 | |
2両 | |
4両 |
Q14 | 坂本龍馬は脱藩の時、檮原の関所を通り伊予国(愛媛県)に入ったが、何という関所か。 |
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安宅の関 | |
白河の関 | |
宮野々関 | |
西ノ川関 |
Q15 | 坂本龍馬は檮原で一泊して土佐から伊予へ脱藩しましたが、檮原で泊まったのは誰の家か。 |
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岩崎弥太郎 | |
新宮馬之助 | |
沢村惣之丞 | |
那須信吾 |
Q16 | 文久2年3月24日に沢村惣之丞とともに脱藩した龍馬は、檮原街道を経て大洲領に出ると、長浜の豪商・冨屋金兵衛方に宿泊しているが、同家には先に脱藩した人物が、龍馬らが追って来訪する旨の手紙を同家に届けていた。その人物は誰か。 |
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吉村虎太郎 | |
大石団蔵 | |
那須信吾 | |
宮地宜蔵 |
Q17 | 文久2年3月25日、龍馬の脱藩を知った平井収二郎は在京中の妹・加尾に、「龍馬は○○なれども書物を読まぬゆえ、時としては間違いし事も御座候わば、よくよく御心得あるべく候」と、手紙で注意を与えていたが、「○○」に入る言葉は何か。 |
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好漢 | |
利口 | |
人物 | |
怜悧 |
Q18 | 文久3年に乙女へ宛てた手紙で、龍馬は千葉佐那について記しているが、文中で「平井より少しよし」と平井加尾と比べている。何を比較していたのか。 |
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姿形 | |
心根 | |
顔形 | |
愛嬌 |
Q19 | 龍馬に関する出来事を時系列で並べたときに正しいものを次から選べ。 |
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島津久光、兵を率いて入京→生麦事件→皇女和宮降嫁→龍馬、1度目の脱藩 | |
皇女和宮降嫁→龍馬、1度目の脱藩→島津久光、兵を率いて入京→生麦事件 | |
島津久光、兵を率いて入京→生麦事件→龍馬、1度目の脱藩→皇女和宮降嫁 | |
島津久光、兵を率いて入京→皇女和宮降嫁→生麦事件→龍馬、1度目の脱藩 |
Q20 | 文久3年1月15日、勝海舟は下田で山内容堂と遭遇し、龍馬の脱藩罪赦免を申し入れ、容堂に認められる。このとき証拠として容堂が海舟に与えた紙面に描かれていた絵は何か。 |
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鯨 | |
瓢箪 | |
盃 | |
鰹 |
Q21 | 文久3年5月、勝海舟は大坂に海軍塾を開くにあたり、龍馬を福井の松平春嶽(慶永)のもとへ送り、設立資金の援助を依頼するが、願い出た金額は何両か。 |
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1000両 | |
3000両 | |
5000両 | |
10000両 |
Q22 | 近藤長次郎の切腹を知らされた龍馬は、その死について『坂本龍馬手帳摘要』に「○○余りありて至誠たらず」と書いた。「○○」に入る言葉は何か。 |
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権謀 | |
計略 | |
策謀 | |
術数 |
Q23 | 安政4年8月、江戸での修行中だった龍馬は縁戚関係にあった山本琢馬が、商人の落としていったある品物を換金しようとした事件に遭遇するが、その品物は何か。 |
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時計 | |
根付 | |
香水 | |
簪(かんざし) |
Q24 | 文久元年10月、龍馬が讃岐丸亀へ剣術詮議に出かけることが決定すると、樋口真吉は日記にある言葉を書いた。それは何か。 |
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坂龍飛騰 | |
坂龍飛天 | |
坂龍飛翔 | |
坂龍飛躍 |
Q25 | 文久3年6月29日付で姉の乙女へ宛てた手紙で、龍馬は「土佐の芋掘りともなんともいわれぬ、居候に生まれて、ひとりの力で天下動かすべきは、これまた天よりする事なり」といささか自惚れたような表現をしていますが、すぐに続けて「こう申してもけしてけしてつけあがりはせず・・・」と「○○貝」のように自覚していることを、自戒を込めて書いています。この「○○貝」とは何貝か。 |
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ほたて貝 | |
たいら貝 | |
つぶ貝 | |
すずめ貝 |
Q26 | 文久2年12月、龍馬は勝海舟に入門するため勝家を訪れているが、このとき海舟の家は『江戸切絵図』の町名では、どの町の近くにあったか(江戸時代には武家地に町名はなく、住所は近くの町名を名乗っていた)。 |
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赤坂田町 | |
赤坂氷川門前町 | |
本所入江町 | |
本所吾妻橋 |
Q27 | 龍馬に北辰一刀流を指導した千葉重太郎は、ある藩の剣術師範をしていた。ある藩とはどこか。 |
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広島(芸州)藩 | |
本(肥後)藩 | |
和歌山藩(紀州)藩 | |
鳥取(因州)藩 |
Q28 | 龍馬はある年の3月20日付で「さてもさても人の一世はがてんの行かぬは元よりの事、うん(運)のわるいものは、ふろ(風呂)よりいでんとして……」との一節で始まる手紙を乙女に書いているが、何年のものか。 |
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文久3年 | |
文久2年 | |
元治元年 | |
慶応元年 |
Q29 | 千葉佐那は維新後、東京の千住で千葉家に伝わる治療院を開いて生計を立 てていたが、何による治療を行っていたか。 |
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灸 | |
骨接ぎ | |
指圧 | |
整体 |
Q30 | 龍馬の死後、「君がため こぼれる月の かげくらく なみだは雨と ふりしきりつつ」との弔歌を詠んだ土佐藩士は誰か。 |
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岩崎弥太郎 | |
佐々木高行(三四郎) | |
後藤象二郎 | |
福岡孝悌(藤次) |
Q31 | お龍が『千里駒後日譚』で「髷が立派で美しい人でした」と語った海援隊士 がいる。それは誰か。 |
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白峰駿馬 | |
千屋寅之助 | |
沢村惣之丞 | |
新宮馬之助 |
Q32 | 慶応3年8月14日、下関でお龍と会い、「美人の事なれども、賢婦(夫)人や否やは知らず。善悪ともなし兼ぬるように思われたり」と評したのは誰か。 |
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後藤象二郎 | |
佐々木高行(三四郎) | |
中岡慎太郎 | |
岩崎弥太郎 |
Q33 | 「かくすれば かくなるものと 我も知る なおやむべきか やまとだましい」。これは龍馬がある長州藩士と盃を交わしたさいに朗詠した和歌とされているが、相手は誰か。 |
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桂小五郎(木戸孝允) | |
伊藤俊輔(博文) | |
高杉晋作 | |
井上聞多(馨) |
Q34 | 平成2年のNHK大河ドラマ『翔ぶがごとく』で龍馬を演じたのは誰か。 |
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佐藤浩市 | |
三田村邦彦 | |
鹿賀丈史 | |
江口洋介 |
Q35 | 龍馬の姉・乙女と、初恋の女性といわれる平井加尾はある習い事で同門の友人です。当時、高知では大流行していた楽器ですが次のうちどれか。 |
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月琴 | |
三味線 | |
一弦琴 | |
浄瑠璃 |
Q36 |
勝海舟からある人物について問われた龍馬は次のように評している。もっとも正しい組み合わせはどれか。 『(A)は(B)である。しかしその(B)の幅がどれほど大きいか分からない。小さく叩けば小さく鳴り大きく叩けば大きく鳴る。』 |
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A.大久保利通 B.利口 | |
A.大久保利通 B.馬鹿 | |
A.西郷隆盛 B.利口 | |
A.西郷隆盛 B.馬鹿 |
Q37 | 文久2年4月、土佐藩参政吉田東洋が暗殺されたとき、坂本龍馬は何をしていたか。 |
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東洋暗殺に加わった後、脱走して長州へ走った。 | |
江戸で剣術の修業中だった。 | |
暗殺事件より前に脱藩して下関から九州、あるいは西国の情勢を探索していた。 | |
勝海舟の門に学んでいた。 |
Q38 | (亀山)社中についての記述について最も適当なものはどれか。 |
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隊士には毎月一人当たり3両2分の手当てが支給されたが、隊長の龍馬は10両であった。 | |
社中の者は揃いの黒袴をはいていたので『亀山の黒袴』と呼ばれ、乱暴者集団のように恐れられた。 | |
社中は慶応元年閏5月に発足、それから約2年、海援隊と名を変えて発展するまで活動した。 | |
(亀山)社中創設には前越前藩主松平春嶽と長崎の豪商白石正一郎の援助があった。 |
Q39 | 龍馬に関する出来事を時系列で並べたときに正しいものを次から選べ。 |
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日米修好通商条約締結→勝海舟ら、咸臨丸でアメリカへ出発→龍馬が土佐勤王党に加盟→家茂が14代将軍に就任 | |
日米修好通商条約締結→龍馬が土佐勤王党に加盟→勝海舟ら、咸臨丸でアメリカへ出発→家茂が14代将軍に就任 | |
勝海舟ら、咸臨丸でアメリカへ出発→日米修好通商条約締結→龍馬が土佐勤王党に加盟→家茂が14代将軍に就任 | |
日米修好通商条約締結→家茂が14代将軍に就任→勝海舟ら、咸臨丸でアメリカへ出発→龍馬が土佐勤王党に加盟 |
Q40 | 京都の寺田屋で伏見奉行所捕り方に襲われた龍馬は所持していた拳銃によって危地を脱することができました。この拳銃はある人物より贈られたものですが、贈り主は誰か。 |
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高杉晋作 | |
西郷隆盛 | |
グラバー | |
桂小五郎 |
Q41 | 龍馬が姉・乙女に宛てた手紙で、その死について「まことにむごいむごい」と嘆いた土佐勤王党員は誰か。 |
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武市半平太 | |
岡田以蔵 | |
間崎哲馬 | |
平井収二郎 |
Q42 | 龍馬の暗殺時、座敷に置かれていて、血痕の残る二曲屏風はどこが所蔵しているか。 |
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霊前歴史館 | |
酢屋 | |
京都国立博物館 | |
高知県立坂本龍馬記念館 |
Q43 | 文久3年6月の手紙で、龍馬は乙女宛てに千葉佐那のことを説明した手紙を書いているがその内容として誤っているものはどれか。 |
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大変愉快で、面白い人です。 | |
本名は乙女といいます。 | |
馬にも乗るし、剣や長刀も相当な腕前です。 | |
13弦の琴も免許皆伝の腕前で、絵も描けます。 |
Q44 | 坂本家の家紋が違い升に桔梗紋であることから、先祖はある有名戦国大名だったのではないかと言われている。その大名とは誰か。 |
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明智光秀 | |
織田信長 | |
豊臣秀吉 | |
毛利元就 |
Q45 | 龍馬の知遇を得て、龍馬暗殺当日も近江屋にいた少年・菊屋峯吉の家業は何か。 |
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八百屋 | |
酒店 | |
鳥料理店 | |
書店 |
Q46 | 龍馬の全身写真の1つに、塀の前で菊花をバックに、縁台に座って撮影したものがある。現存する龍馬の写真中、もっとも遅い時期に撮影したものとみられているが、この写真で龍馬の足部はどのようになっているか。 |
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足袋のみ | |
足袋に下駄 | |
足袋に草履 | |
ブーツ |
Q47 | 慶応3年1月、いわゆる「海援隊士の集合写真」が上野彦馬の撮影局で撮影されますが、その写真に写っているのは、龍馬を含めて何人か。 |
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6人 | |
5人 | |
7人 | |
8人 |
Q48 | 慶応3年4月、土佐藩は海援隊を傘下として月給を支給するが、ひとりあたりの金額が岩崎弥太郎の日記に記録されている。それは何両だったか。 |
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3両 | |
4両 | |
5両 | |
6両 |
Q49 | 慶応3年4月に龍馬が鞆で書いたと思われる寺田屋伊助宛の手紙には、「大浜濤次郎」と「才谷梅太郎」という変名のほかに、変わった名前が記されている。それは何か。 |
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取巻助六 | |
揚巻抜六 | |
海苔巻(のりまき)助六 | |
取巻抜六 |
Q50 | 龍馬は慶応元年五月大宰府を訪れ、五卿に謁見した。このとき、東久世通禧は「土佐藩坂本龍馬面会。偉人なり、○○○なり」と評した。○○○にあてはまるのはどれか。 |
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奇説家 | |
勉強家 | |
努力家 | |
人情家 |
Q51 | 龍馬らは高杉晋作に頼まれて、四境戦争に参戦している。このときに龍馬が載っていた船の名前は何か。 |
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ワイルウェフ号 | |
ユニオン号 | |
いろは丸 | |
咸臨丸 |
Q52 | 龍馬と最期をともにした陸援隊長・中岡慎太郎は土佐の何郡の出身か。 |
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香美郡 | |
土佐郡 | |
安芸郡 | |
長岡郡 |
Q53 | 龍馬が殺害された近江屋の2階の部屋には、淡海槐堂(おうみかいどう)の掛け軸がかけられており、襲撃時の血痕が生々しく残されている。事件後、その掛け軸の上部に当時の海援隊士が6行にわたる「賛」を書き、署名している。その元隊士は誰か。 |
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長岡謙吉 | |
陸奥源二郎 | |
千屋寅之助 | |
高松太郎 |
Q54 | 慶応2年12月4日、龍馬は兄・権平ほか一同に宛てて手紙を書き、そのなかで「当時、天下の人物」として、徳川家では勝海舟と大久保一翁、福井藩では長谷部勘右衛門ともうひとりの名前をあげている。その人物は維新後に「由利公正」と名乗るが、龍馬が書いた当時の名前は何か。 |
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横井小楠 | |
中根雪江 | |
村田巳三郎 | |
三岡八郎 |
Q55 | 慶応2年7月4日付けで木戸孝允に宛てた龍馬の手紙に「お別れ後、小郡まで参り候ところ、下関はまた戦争と弟(龍馬)おもうに、どうぞまた○○○はさしてくれまいかと・・・」との一説があります。○○○にあてはまる言葉は何か。 |
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野次馬 | |
見物 | |
応援 | |
お手伝い |
Q56 | 河田小龍がジョン万次郎の話を受けて記した書物はどれか。 |
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『閑愁録』 | |
『漂巽紀略』 | |
『英将秘訣』 | |
『藤陰略話』 |
Q57 | 龍馬の死後、その功績をたたえて贈られた位は何か。 |
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正三位 | |
従三位 | |
正四位 | |
従四位 |
Q58 | 坂本家は五代当主の直寛の時に一族を挙げてどこに移住したか。 |
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上海 | |
北海道 | |
沖縄 | |
長崎 |
Q59 | お龍は元治元年に龍馬と結婚したが、そのときは旅館の仲居の仕事をしていた。当時、お龍がつとめていた旅館の屋号は何か。 |
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扇岩 | |
中村屋 | |
池田屋 | |
あけぼの亭 |
Q60 | 龍馬が京都での宿とし、海援隊の詰所ともされる酢屋嘉兵衛方の職業は何か。 |
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醤油商 | |
薬種商 | |
海産物商 | |
材木商 |
Q61 | 龍馬が最期を迎えた京都の近江屋の主人の名前は何か。 |
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新之助 | |
新助 | |
新太郎 | |
新左衛門 |
Q62 | 『汗血千里駒』では、千葉佐那のことを別の名前で記しているが、その名前は何か。 |
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早苗 | |
光子 | |
薫 | |
良子 |
Q63 | 龍馬は「土佐四天王」の一人とされるが、以下の人物で四天王に数えられていないのは誰か。 |
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中岡慎太郎 | |
吉村虎太郎 | |
平井収二郎 | |
武市半平太 |
Q64 | ワイルウェフ号難破事件で、死亡したのは誰か。 |
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村山八郎次 | |
浦田運次郎 | |
高松太郎 | |
池内蔵太 |
Q65 | 龍馬が「自然堂」と号したが、それは下関の本陣の一室の名前だった。それは誰の家にあったか。 |
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伊藤助太夫邸 | |
白石正一郎邸 | |
入江和作邸 | |
林算九郎邸 |
Q66 | 海援隊の二代目隊長として土佐藩から任命されたのは誰か。 |
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長岡謙吉 | |
陸奥陽之助 | |
後藤象二郎 | |
高松太郎 |
Q67 | 坂本龍馬の写真の中でその人物をもっとも象徴する写真は、ブーツを履き、高めの卓台に寄りかかって遠方を眺めるような表情で撮影された全身立像です。この写真で龍馬が携えているものは何か。 |
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大小2本の廃刀 | |
太刀1本のみ | |
ピストル | |
小刀1本のみ |
Q68 | 慶応3年1月、龍馬は敵対する後藤象二郎と長崎榎津町の料亭で面談し、手を握り合うこととなるが、その料亭の名前は何か。 |
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花月 | |
玉川 | |
清風亭 | |
藤屋 |
Q69 | いろは丸事件について誤っているものはどれか。 |
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賠償金は船の借り先である大洲藩に一部支払われた。 | |
龍馬は紀州藩との交渉中、米国エートンが書いた国際法「万国公法」を持ちだした。 | |
形勢が不利と知った紀州藩は薩摩藩士五代友厚に調停を依頼した。 | |
「明光丸」の船長は「我々は長崎での藩命のため急いでいる。事故の論議は長崎でしたい」と主張した。 |
Q70 | 「土陽新聞」に連載された「汗血千里駒」の著者は誰か。 |
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岩崎鏡山 | |
千頭清臣 | |
坂崎紫瀾 | |
川田瑞穂 |
Q71 | 龍馬は蝦夷地の開拓をめざしていましがた、もう一つある島の開拓も計画している。どの島か。 |
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小笠原諸島 | |
壱岐 | |
佐渡島 | |
竹島 |
Q72 | 龍馬の初恋の女性と言われている平井加尾について誤っているものを選べ。 |
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土佐藩士・平井収二郎の妹である。 | |
三条家に嫁いだ山内家の姫の御付役として上京した。 | |
加尾の在京中、龍馬は変装仕度の用意を頼む書簡を送っている。 | |
龍馬を思い一生独身を貫いた。 |
Q73 | 千葉佐那は、自分が坂本龍馬の許嫁であった証として持っていたものを後年人に見せて思い出話を語っています。その証とは何か。 |
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短刀 | |
婚約を申し込む手紙 | |
黒紋付 | |
かんざし |
Q74 | いろは丸事件の裁判中、御三家の紀州藩に対して長崎奉行所があいまいな処分を下そうとする中、龍馬はある戦略で自分たちの立場を有利なものにしようとした。その手法とは何か。 |
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ビジネスの取引をした。 | |
薩摩藩の後ろ盾をつかった。 | |
街中に紀州藩が悪いというポスターを貼った。 | |
紀州藩が悪いという歌を作って流行らせた。 |
Q75 | 慶応3年7月、イカルス事件が起き、龍馬を交えて談判が行われた。その談判中、龍馬は相手の反論を遮るように、声を立てて笑ったため、相手に一喝された。すると龍馬は「かれは悪魔のようなおそろしい顔つきをして、黙りこんでしまった」と記録されるのだが、記録したのは誰か。 |
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アーネスト・サトウ | |
ハリー・パークス | |
マルクス・フローエルス | |
トーマス・グラバー |
Q76 | 慶応3年8月1日、龍馬はイカルス号事件の対応のため国許へ向かう藩士とともに、海路を高知へ向かうが、その藩士とは誰か。 |
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後藤象二郎 | |
佐々木三四郎(高行) | |
福岡藤次(孝弟) | |
寺村左膳(道成) |
Q77 | 前述の行動は予定外の行動で、その藩士に手紙を渡すため乗船したところ、船が出航してしまったのだが、なぜ出港前に下船できなかったのか。 |
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急に腹痛に襲われた | |
同行を頼み込まれて断れなかった | |
自分が出向く必要があると判断した | |
その藩士と話し込んでしまい船が出航することに気付かなかった |
Q78 | 慶応3年6月、龍馬が後藤象二郎と長崎から京都へ向かうとき、餞別に馬乗袴をくれたのは誰か。 |
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近藤長次郎 | |
佐々木高行 | |
岩崎弥太郎 | |
後藤象二郎 |
Q79 | 慶応3年10月、龍馬は福井を訪れて三岡八郎と旅館で面談し、そのときある物を渡しているが、後日、三岡はそれを川に落として失ってしまった。龍馬は何を渡したのか。 |
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自分の写真 | |
愛用の小刀 | |
後藤象二郎にもらった手鏡 | |
偽造した貨幣の見本 |
Q80 | 慶応3年9月、龍馬は長崎の外国商社と小銃1300挺の購入を契約しているが、その商社の名称は何か。 |
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グラバー商会 | |
ハットマン商社 | |
オルト商社 | |
ウォーカー商会 |
Q81 | 慶応3年11月15日、龍馬は下宿先の近江屋の二階で賊に襲われるが、そのときに龍馬がいた部屋は建物のどの方角に位置していたか。 |
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西 | |
北 | |
東 | |
南 |
Q82 | 「船中八策」は龍馬が長崎から神戸に向かう船中で提示したものとされるが、その船の名前は何か。 |
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夕顔丸 | |
横笛丸 | |
羽衣丸 | |
胡蝶丸 |
Q83 | 海援隊士でお龍の妹・起美と結婚した人物は誰か。 |
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陸奥陽之助 | |
菅野覚兵衛 | |
高松太郎 | |
新宮馬之助 |
Q84 | 慶応3年9月20日、後藤象二郎は大政奉還の建白について、老中永井尚志と面談し、その席である人物を紹介された。その人物とは誰か。 |
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将軍・徳川慶喜 | |
会津藩主・松平容保 | |
新選組局長・近藤勇 | |
老中・板倉勝瀞 |
Q85 | 慶応3年6月25日、龍馬はある人物にともなわれ、初めて岩倉具視のもとを訪れている。龍馬に同行していたのは誰か。 |
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中岡慎太郎 | |
西郷隆盛 | |
後藤象二郎 | |
小松帯刀 |
Q86 | 次の変名と本名の関係が誤っているのはどれか。 |
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前河内愛之助−沢村惣之丞 | |
浦田運次郎−佐柳高次 | |
寺内信左衛門−新宮馬之助 | |
橋本久太夫−腰越次郎 |
Q87 | 慶応元年3月、龍馬はお龍とともに鹿児島へ向かい、滞在中に温泉旅行に出かけるが、この旅を「ハネムーン」として紹介した本のタイトルは何か。 |
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『汗血千里駒』 | |
『幕末英傑坂本龍馬』 | |
『阪本龍馬』 | |
『土佐偉人伝』 |
Q88 | 慶応3年4月、龍馬が鞆で伏見の寺田屋伊助に書いた手紙には、「私をして海援隊長と申し付け、すなわち長崎にて一局を開き、諸生の世話いたし申し候」との一節があり、「一局」の言葉に添えて「○○○なり」と、海援隊がどのようなものであるかを一言で表している。それは何か。 |
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講武所 | |
学問所 | |
学習所 | |
操練所 |
Q89 | 龍馬が刀を鞘ごと抜いて右肩に担いでいるという、珍しいポーズの銅像があるが、それがある町はどこか。 |
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高知県檮原町 | |
鹿児島県牧園町 | |
愛媛県河辺町 | |
香川県琴平町 |
Q90 | 慶応3年4月に海援隊が発足し、遅れて陸援隊も発足するが、当初は両隊を合わせた名称として、ある隊名が用意されていたことが福岡孝悌(藤次)の手記に記録されている。その隊名は何か。 |
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飛天隊 | |
翔天隊 | |
翼天隊 | |
躍天隊 |
Q91 | 明治3年、元京都見廻組の今井信郎は行部省での取り調べに対し、見廻組の龍馬暗殺を認めたが、自分は見張り役をつとめており、実行犯ではないと供述した。当初、今井が見張りについたと供述したのはその家のどこか。 |
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表戸 | |
裏戸 | |
土蔵 | |
台所 |
Q92 | 近畿評論」に掲載された元京都見廻組の今井信郎の聞き書きによると、龍馬暗殺の日、今井を含めた佐々木只三郎を指揮官とする刺客たちは、龍馬に面会するため、取り次ぎに出た藤吉にある藩名を名乗ったといいます。何藩の者と名乗ったか。 |
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松代 | |
長州 | |
薩摩 | |
芸州 |
Q93 | 坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋の近くに住みながら、現場にも葬儀にも出てこなかった人物は誰か。 |
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福岡孝悌 | |
近藤勇 | |
長岡謙吉 | |
後藤象二郎 |
Q94 | 中岡慎太郎は龍馬暗殺事件後も重傷を負いながらしばらく生き、ある食べ物を美味しそうに食べたという。その食べ物とは何か。 |
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うなぎ | |
焼飯 | |
お茶漬け | |
刺身 |
Q95 | 今井信郎のほかに元見廻組隊士が龍馬暗殺事件の犯人であることを告白しているが、その人物が告白時に名乗っていた名前は何か。 |
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渡辺吉太郎 | |
渡辺一郎 | |
渡辺麟一郎 | |
渡辺篤 |
Q96 | 龍馬が兄の権平へ宛てた慶応3年8月の手紙で、時計と交換でねだった刀は何か。 |
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無銘の了戒 | |
無銘の正宗 | |
備前吉光 | |
肥前忠広 |
Q97 | 明治18年、お龍は西村松兵衛と再婚して西村姓を名乗るが、このときに名前も改めている。その名前は何か。 |
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カメ | |
マン | |
ツル | |
セン |
Q98 | お龍は明治39年に67歳で死亡した。その墓があるのは何市か。 |
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京都市 | |
鹿児島市 | |
高知市 | |
横須賀市 |
Q99 | 明治元年12月に木版刷り半紙16枚からなる200部限定の小冊子が刊行され、これが海援隊の出版物とされているが、その題名は何か。 |
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『時代論』 | |
『原論』 | |
『藩論』 | |
『西洋論』 |
Q100 | 龍馬が一人の土佐藩士に、長刀が実戦に不向きであることを告げ、次の機会には刀よりもピストルが有利であることを告げ、また次の機会にはピストルよりも『万国公法』を見せ、武力よりも学問が大事であることを告げたというエピソードがある。このエピソード自体は創作なのだが、そのなかで龍馬がこれらを告げたとされた土佐藩士の名前は何か。 |
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檜垣清治 | |
島村寿太郎 | |
中平喜之助 | |
池知退蔵 |